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創造と狂気の歴史 プラトンからドゥルーズまで (講談社選書メチエ)
によって 松本 卓也
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ペーパーバック : 384ページ ページ
作者 : 松本 卓也
出版社 : 講談社 (2019/3/13)
コレクション : 本
ISBN-10 : 4065150116
フォーマット : 単行本(ソフトカバー)
発行日 : 2019/3/13
平均的な顧客フィードバック : 4 5つ星のうち(7人の読者)
ファイル名 : 創造と狂気の歴史-プラトンからドゥルーズまで-講談社選書メチエ.pdf (サーバー速度23.14 Mbps)
ファイルサイズ : 26.28 MB
作者 : 松本 卓也
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とてもおもしろい。そして精神疾患を哲学に加えることで、その思想の見通しをよくしてくれます。しかし本書は病跡学の本ではありません。プラトンからドゥルーズまでの哲学者が「心の病と創造の関係」についてどう考えていたかをまとめたものです。病跡学としてはドイツの詩人フリードリヒ・ヘルダーリンが前半における考察の中心となります。ドゥルーズの13章では、ルイス・キャロル、レーモン・ルーセル、ルイス・ウルフソンの病跡が検討されます。なにしろ丁寧に書かれていますから、登場する哲学者の理論の理解が進みます。一般向けの本でもないのに「精神分析」の説明があったり(p.12)、国語辞典でもないのに「尖兵」の説明があったりするのです(p.32)。それと、前説のまとめをしてから次の説明をするというスタイル、つまり繰り返しが多くあるのも理解を助けてくれます。著者の講義を聴く学生に向けて書かれたという印象です。最近のエビデンス・ベイスド・メディスン(EBM)に基づく病跡学では、躁うつ病やうつ病のような気分障害が創造性ともっとも関係しているそうですが(p.32)、EBMしか信じない方は、本書の価値は理解できないでしょう。本書の骨格を示しておきます。近代的主体、つまりデカルトが登場するまでは、「メランコリーと創造」が問題となっていたが、それ以後は「統合失調症と創造」の関係が問題となった(p.106-107)。しかし、総合失調症と創造の関係が見えなくなったこの時代において(p.222)、「創造と狂気」の関係を問い直すためにドゥルーズを登場させます。・デカルト;「われ思う故にわれあり」は、どんなに疑っても疑い得ないものと教えられてきましたが、疑っている私以外のものを信じられないなら、この私も信じられないのではないかと、かねがね思っておりました。本書においてデカルトのこのコギトは、悪霊に欺かれる可能性があるなかで、コギトのお題目を唱えるときだけ悪霊を退散させる御札のようなものという考察(p.120)は、大変おもしろいし、私の疑問も解消しました。近代的主体は狂気と無縁ではないのです。・カント;カントは『脳病試論』1764年において、人間能力の感性・悟性(知性)・理性に、「あたまの病」として狂気・狂疾・錯乱を対応させます(p.136-138)。狂気は感性の異常、つまり幻覚のことです。カントはルソーを例にあげています。狂疾とは、感覚の異常はないが倒錯した判断を下すこと、つまり関係妄想のことです。錯乱は狂疾が重症化した理性の無秩序状態のことです。これは、現代の視点から見てもそれほど突飛なものではありません。感性・悟性(知性)・理性の構造は狂気とつながっています。つまり、「狂気になる可能性をもつことが、人間の条件である(p.139)」ことになります。似たような話をフロイトについても聞いたことがあります。イド・自我・超自我の構造が正常と異常をつなげたという話です。フロイトの『自我とエス』は1923年の発表ですから、カントはフロイトより159年前に、人間は内部に狂気をはらんでいることを指摘していたのです。そして、そのはらんだ狂気に対する不安を封じ込めるために生まれたのがカントの哲学だったのです(p.156)。・ヘーゲル;ヘーゲルは「狂気を乗り越える哲学」をつくりあげた人です(p.157)。ヘーゲルの『精神現象学』は、しばしば教養小説、主人公があまたの苦難を乗り越えつつ人格を統治していく物語になぞらえられ(p.158)、その弁証法的な過程のなかで、狂気は自己意識が絶対知に至るまでに必要とされる項だとされるのです(p.160)。ヘーゲルと同時代の「近代精神医学の父」と呼ばれるフィリップ・ピネルは、部分狂気という概念をつくりあげました。こころの機能のすべてが狂うのではなく、一部分だけが狂っているとするものです。ピネルはそれまで鎖につながれていた精神障害者の鎖を解き、彼らに道徳療法を施しました。これは残存する理性に働きかけて治療しようとするものであり、現在の精神療法(心理療法)の原型となっています(p.163)。・症例 ヘルダーリン;ヘルダーリンは病跡学では統合失調症の典型ですが、二度の危機があったようです。1795年の「イエナでの抑うつ」と1799年の「新雑誌創刊に端を発する発病」です。この二つの契機を著者は「理想と現実」で説明しようとします。大詩人シラーという理想に手が届かない到達不可能性がヘルダーリンを「イエナでの抑うつ」に追い込んだ(p.193)。そして、理想実現のために新雑誌創刊という思い上がりがなされ、その必然的な挫折が種々の精神症状を導いたと分析します(p.191)。「理想と現実」の二者択一のあいだで「現実」を選んだのが「イエナでの抑うつ」で、新雑誌の創刊をもって「理想」を選んだのが統合失調症の発病ということになります(p.193)。これは、社会学者エミール・デュルケームのアノミー概念のパラフレーズである、ロバート・マートンの緊張理論(strain theory)に似ています。「理想と現実」は、「アメリカン・ドリームと成功にいたる制度的手段」に置き換わりますが。・ハイデガーハイデガーは神の庇護が失われた時代、自らの存在を問う哲学を展開するために、ヘルダーリンを何度も参照します(p.213)。特に「否定神学論」にとって重要となります。否定神学論とは、「神は人間の通常の認識や言語では捉えられないものであるけれども、むしろその捉えられなさという否定性それ自体を重要なものとみなす」考え方です(p.215)。ヘルダーリンのような詩人は、隠れてしまった神々の痕跡を感知し、その痕跡に名を与えることによって、将来において神々が到来する場を準備するとハイデガーは主張するのです(p.216)。・ドゥルーズ;総合失調症と創造の関係が見えなくなったこの時代は、自閉症スペクトラム障害が統合失調症の代わりを務めることになります。総合失調症は、人生上のある決定的な出来事に忠実であろうとします。そうすることこそが主体を保つことになるからです。草間彌生が横尾忠則とのインタビューで、唐突にニューヨークでの成功体験の話をし出すのはそれです。一方、自閉症スペクトラム(ASD)は決定的な出来事から逃走を図ろうとするのです(p.285)。逃走は深層には至らず表面を好みます。そこにはデータとアルゴリズムがあるだけかもしれず、偶然と賭けを好みます。確かに最近の芸術は、ASD的な特徴があるように思えます。本書の最後の文章は、「(ASD戦略は、)表象可能なものを夢や症状といったもので代理的に表象する神経症的な戦略とも、不可能なものの深淵に落ち込んでしまう精神病的な戦略とも異なる、別の仕方での不可能なものとの関係を可能にするでしょう。その 可能性に賭けることこそが、ドゥルーズを導いた三人のASD者の文学が目指したことだったように思われます(p.351)」と結ばれています。三人とは、ルイス・キャロル、レーモン・ルーセル、ルイス・ウルフソンのことです。ルーセルとウルフソンは、ほとんど知られていませんが、キャロルとは『不思議の国のアリス』を書いた作家です。個人的には『不思議の国のアリス』は好きではありません。というより理解できないのです。どうやら私は、人生の出来事にこだわって、おのれの主体を大事にして生きていくしかなさそうです。
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