国家 下 (岩波文庫)

扉うらの古ギリシャ語は、プラトノス・ポリーテイアーと読むのだろうか。プラトンの国制論、といった意味だろう。『国家』は、最も有名な西洋思想・哲学の古典のひとつであるから、後世の様々な思想との関連を思い起こせる。例えば、魂の不死の思想に関しては、その奇妙な超越性との関わりでデカルトのコギトと響きあうし、エルの物語にみえる必然と選択と偶然（くじ）では、マキアヴェッリのフォルトゥナとヴィルトゥとを思い起こせる。また、プラトンの示す少数の善人による国家運営と、アダム・スミスが示すような維持可能な妥当性を保った多数者による社会や政治の運用とは、ずいぶんと隔たりがある。一方、支配者（候補）への教育やその理念的生活については、優生思想や全体主義や前衛主義が伺え、現代の人権思想や民主政からは同意することはできない。また、善悪を固定した静的なものと捉えている態度には共感できない。恐らく、現代社会にとっては、個々人の自由と規制の範囲と、個々人の自由を安定的に保障するような社会制度、この両者の関係が緊張感を持ちつつ動的に成立するように企図されるべきだと思う。本編もなかなかの長編であるし、訳注も豊富であるし、また、登場するソクラテスにあまり共感できないこともあり、冗長にも感じる。訳者による詩人追放論や解説は興味深く、読みやすい。前者については、神−大工−画家の三段階とイデア論とについては、古典美術理論と観念論哲学を代表するものだと思われ、西洋的文化に強い影響を与え続けているように思える。美術理論においては、思惟の対象／観察の対象の対比が示されているが、これは、代数学／幾何学や記号／図像との対比に対応するだろう。直角三角形を描くことはできるが、3:4:5という比率のみを描くことはできないだろう。解説では、『国家』執筆の背景が示され興味深い。度重なる戦争、それと関連する政治制度や指導者の交替、政治的勢力対立とも絡むソクラテスの刑死、ソクラテスの求める知・智を希求する態度と卓越主義、それを現実的に成立させる（あるいは阻害する）社会状況・制度への参加、こういったものはアカデメイア設立の動機であったろうし、そこでの教育理念をも打出さずにはいられなかったろう。詩人追放論に関しての追記として、『国家』もミュートスとしての対話篇であること、本編終結部においてアイアスやアガメムノンやオデュッセウスといった英雄に触れられること（智者オデュッセウスはここでも賢明な選択を示す）、詩人追放論における主張がホメロスなどの悲劇詩人を貶める趣きがあり不快な感情を惹起させるように描かれていること、これらは『国家』の主旨に反しているようであるが、ある種の文学性を利用し、その効果を自ら示しているようにも思える。第8巻3章における生成を規定する数については、訳者による補註があり、重要なものなのかもしれないが、理解に苦しむ。しかし、周期や円を象徴するだろう36などの数字は、循環的な生死観と結びつくように思える。これは、後のキリスト教の単線的歴史観と対立するものだ（単線的歴史観は、ユダヤ教など一神教の思想から受け継がれたもので、これは後のマルクス主義や進化論にも受け継がれる）。但し、第10巻のエルの物語は輪廻思想を示してはいない。これは魂の不死の思想から要請されるものだろう。もう一点、別の角度から見ると、数への執着はピュタゴラス派への牽制であったのではないか。ピュタゴラス音階は音の物理的性質を利用したものであるし、無理数はピュタゴラス派にとって秘儀であったようだ。本編で直接には語られないが、ピュタゴラス派の影響は強く、プラトンもその主著では触れねばならなかったのではなかろうか、などと穿った見方をしてしまう。